2003年10月28日号(NO.159)    

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むかしのはなし

  彼は明治6(1873)年 山本郡桧山町(現在の能代市桧山)の生まれである。彼の父は佐竹藩の下級武士で、当然のように高楊子の部類すなわち貧乏ぐらしである。
幼少の頃少しは出来が良かったのか、秋田師範から東京高等師範学校へと進み教育者となる。学生の頃時代を先取りして英文学をやるか、中国文学を専攻するか悩んだ末に漢学を選択している。昭和42(1967)年数え年95才で他界するまで、後半生は隠居しながら矍鑠とした生活ぶりであった。

 数え年5才の頃であろうか、明治10(1877)年の西南戦争の記憶があると云っていた。
゛西郷隆盛死んであの夜空の星になったのだ……云々゛という歌が当時桧山の子供たちの間で流行したそうである。

 東京高等師範卒業後、東京で小学校の校長をしていた頃、生徒を連れて横須賀に帰港中の戦艦三笠を見学に行った時のことである。東郷平八郎元師が自分を出迎えてくれ、艦上で握手を交わしたという。明治の人間にとって東郷は神であり、予想だにしなかった出来事に感激の極みであったと云っていた。ただし残念なことに後日海軍省から連絡があり、当日同時刻に政府要人と面会の予定があり、元師が人違いをしたのであって大変失礼をしたとの事であった。しかし彼にとってそんなことは問題ではない、とにかく自分のこの右手で元師の右手を固く握りしめたのだと、少し震えながら大切そうにその掌を見つめていた。

 大勢の家族をかかえては生活も苦しく、当時はへき地で給料の高かった札幌師範、台北師範で漢学の教師を務め、最後は母校の秋田師範で教壇に立っている。
当時青森港に未だ桟橋はなく、沖に停泊している連絡船までは波止場から小さな艀を利用して乗下船していたと云う。

 大正時代文部省の欧米教育事情視察団に加わり、1年間の世界1周の旅に出ている。2000円が国から支給され200円を残して帰って来たと云っていたが、その残金の使途に関しては口を閉ざしていた。
空の旅など夢の又夢の時代であり、横浜港を出発しての東回りの船旅である。3週間ほどで太平洋を乗り越えてアメリカ西海岸に上陸して鉄道での大陸横断、ニューヨークから大西洋へ、イギリスに上陸してドーバー海峡からフランスを起点にしてのヨーロッパ各国は鉄道による旅行、さらにアフリカ大陸・インド・東南アジアを回っての大旅行であった。当時最も美しい街並みはワシントン市、最も美しい国はスイス、女性の顔立ちの整っているのはインドと中東諸国などと話していたが、今では映像を通して子供たちでも知っている。カナダ・アメリカの国立公園など大自然の壮大さに触れた話、歴史上の人物の史跡などを訪ね歩いた話などをよくしていたが、肝心の欧米の教育事情の話は周囲の誰もが聞いたことがないのである。

 彼は帰国してから2・3文部省に進言しているが殆ど採用されなかったらしい。以来文部官僚に不快感を持っていたのだが、ほどなく彼自身が文部教官となり、また国定教科書選定委員を拝命しているから不思議であり、よく理解出来ないのである。

 漢学者である彼は各地の師範学校の教壇に立つようになったが、楊貴妃と皇帝との艶っぽい箇所の講義が十八番であったと教え子(といっても今は全員他界)から聞いたことがある。
晩年漢文の試験の前夜となると孫を隠居部屋に呼び寄せ、やおら囲炉裏からとり出した火箸で教科書を指しながら、延々と解説と質問が始まるのである。それを楽しみにしているようでもあった。
孫 曰ク 「明日は数学・英語も試験があるのです。漢文などはとりあえず80点もあればよいのだし、時間が勿体ないからほどほどにして下さい」
彼 曰ク 「お前はそんな考えでいるから成績がよくないのだ。勉強するということはそんなことではないのだ!!」
学期末の度にこのくり返しであった。

 自分は神も仏も信じない無神論者であるが、先祖は先祖として大切に敬いたい。これが口ぐせであった。死後必ず生き返ってくるから1週間はそのまま安置せよと云っていたが、運悪く夏の暑い盛りに逝ったのでそれもかなわず、家族はそそくさと型通りの儀式を済ませて終えたのであった。 (文中 彼は祖父、孫は小生である)
            −s.s−

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